男飯、雑感、記まぐれ

毎晩、晩飯を作っています。2018年10月中旬、くも膜下出血になって休職して、あーだこーだなって失業者。それでも陶器は造ってます。

その3.

2018/10/19 金曜日
朝起きて何時もと同じく出勤しました。流石に内勤で済ませました。ある方に電話で体調不良で後日に変更してもらいました。

翌日20日 土曜日
休みの日。
朝から苦しくて、近所の整体院へ行く。体を揉むでも無く、軽く触り骨なのかわかりませんが、何かの並びを整える様な説明で終了。
また明日来て下さいとの事でした。


頭の衝撃があってから4日目で、ダルさ、肩と首が物凄く凝り固まっていて、首が前傾でないとダメで、猫背状態でした。
ただ、会話や口調には全く異常が無く、立てる、真っ直ぐ歩ける、痺れも無く、意識もあったのです。

近所の医者、整形外科でも似たような説明でしたので、私的にも兎に角安静にして治って行くのを待つしかないと思い込んでいました。


リンゴだけを丸かじりし過ごしました。
赤いリンゴ、緑のリンゴと数種類を選び用意しました。そこまで何とか自分でやれる余裕というのか、動く事が出来ていました。

どのリンゴも爽やかで甘くとても美味しかったのは印象的でした。



家人からはもし病院へ行くなら、八事日赤へと名前を聞いていました。
家人には大きな病院へ行ってみたら?とは言われていました。



そして21日。日曜日。
布団で横になって凌いでいました。相変わらず何も変わらずの日でした。
住まいで一人寝ていて、午後の事。
兄弟に相談してみようと思い、姉、兄の順にTELをしました。
兎に角、病院へ行った方が良い。行かなくてはならない。
との、初めて他者から切迫した口調で言われました。
初めて自分でもそう決心しました。日曜日なので、近場の病院、休日診察を17時までしているので、15時台の今なら間に合うと思い、車を運転して急行しました。


診察の番となり、担当医は内科の先生でした。
問診、触診、血圧の順で進み、念のために頭の写真は撮っておいて異常無ければ安心ですので。


そして写真を。
写真の技師から、即座に動かないで下さい。

医師への報告が為されれたようで、医師もとても驚いていたような表情だったのをはっきりと覚えています、そこからナース達の緊張感と緊急事態の口調と行動へと変わりました。

それからは、タンカで移動、救急車の緊急要請、家族への連絡、私のスマホの暗証番号を伝えた記憶があります。

救急車を待つ間、医師に僕は入院しないとマズイですか?と気楽に質問していました。
先生の目は泳いでいました。声も少なくとも揺れていました。

今は兎に角安静にいて下さい。との言葉だったと思います。

今思えば答え難かったからだと了解しています。



重篤な状態であったからです。




家族が駆けつけて来ました。
救急車もやってきました。

医師か救急隊員かに八事日赤へと伝えていましたので、その病院の体制も大丈夫の様でそこへ運ばれていく事になりました。


救急車に乗せられる時、妻に話しがあるからと呼んでもらい、月曜日からの仕事の予定を伝え、上司に連絡してくださいとお願いしてる時に、ナースか救急隊員かにそんな事は考えなくても何とでもなります、他に話す事は?と言われ、ありませんと答えました。

多分、言い残す事は?の意味だったのかもしれません、


その時点でも私にはそのつもりが予想にも無かったのです。




救急車の中で運ばれている時、何だか助かったと思いました。自分だけで苦しまず、誰かに助けて貰えたと思ったからです。だからホッとしたのです。目を閉じて久しぶりに精神的に落ち着けた気持ちでした。
しかし、目を閉じて力を抜いている間、繰り返し繰り返し間を開けず名前と生年月日を質問されました。鬱陶しい位連続でした。


後になって教えて貰ったのですが、救急車の後には家族の車が追って来ていたとの事でした。



そう繰り返しのその問いに名前、誕生日を答えている時に初めて気づきました。

死ぬかもしれないんだ、、と。
死ぬのってこんなにも簡単なんだ、、。
何の功績もまともな物も作れずに終わるのか、俺の人生も残念だった。
まだ親を必要としている子どもを残してしまうのか、、。
皆んなゴメン

と内心の自分と話をしていました。

俺も死ぬ間際は、ヤン・ウェンリーと同じ言葉を思うんだなと思い付いたのも覚えています。



そして目を閉じていたので、救急車から病院へ病院内の移動、エレベーターを通して運ばれた事。移動の感覚と瞼を通して感じる光の変化と会話からその場へ到着したと分かりました。
緊張して目が開けられなかったです。
着ていた服から違う物に着替えされました。

そこでも名前と生年月日は何回かきかれました。


その後の記憶はありません。
きっと麻酔で意識をなくしていたからです。

11時間の脳外科手術。

くも膜下出血だったのです。