男飯、雑感、記まぐれ

毎晩、晩飯を作っています。2018年10月中旬、くも膜下出血になって休職して、あーだこーだなって失業者。それでも陶器は造ってます。

長久手古戦場を訪ねる。


今日は準備不足。公園の水道で水を用立てて青汁を作ることにしよう。


色金山、この辺では山とは言えない程度。

写真からも分かりにくいと思うけれど、駐車場から歩いて10分程で上に着く。







でも、

ここは長久手
年表に必ず載っている、テストにも一度位は問題になった小牧長久手の戦い。


詳しくはないけど歴史は好きだ。生まれも育ちも上総国なので、信長秀吉家康とかは教科書や小説、写真の存在だった。東海に来てからは戦国時代が近くて当初は旅行みたいだった。
長久手の地名を知った時も、へぇ〜小牧長久手の戦いと同じ名前なんだと思った程度。そもそも小牧長久手で一つの地名と思っていた。


それはいいとして、
小牧長久手の戦いは、
1582年本能寺の変後の1584年の出来事。
秀吉の天下統一事業の一つ。信長の後継者の立場を確立した秀吉とそれに不満を抱いた信長の二男信雄、同盟を結んでいた家康との戦い。
その戦場が小牧市から長久手市を含む尾張地域。
秀吉軍は池田恒興(勝入)8000、森長可3000、堀秀政3000、三好信吉6000
織田、徳川連合軍には家康本隊9000、榊原康政5000

秀吉軍は家康の拠点の岡崎城への進攻途中、長久手で家康が布陣。
白山林の戦い、 三好は17歳の指揮官、奇襲を受け総崩れ。

桧ヶ根の戦い、 三好の敗走を知り、桧ヶ根の 丘に堀 が布陣。

写真の低い方の山が家康が軍議を開いた色金山。
堀はこの丘を利用し、徳川軍に銃撃し大打撃を与えた。

仏ヶ根の決戦、 この三度目の戦いで数の上でも互角となり膠着状態の中、森 長可(森蘭丸の兄)は井伊直政(大河ドラマ女城主直虎の時の人、井伊の赤備えとしての初めての戦い)隊の銃撃を受け戦死。



こうして徳川軍の勝利となった。



ただし、この小牧長久手の戦いは秀吉の勝利となる。信雄は秀吉との和睦を結び、戦略としての勝利者となったそうだ。家康は戦闘での勝利を収め、秀吉に一歩譲るが実力を示した。


ここまで書いて疲れた。細かいところは間違ってるかも知れません。




色金山に戻ると、



この石が、軍議の際に机として使われた事により床机石と言われています。


色金山からの眺め、見えないけれど。


こんな低い山での陣地なのは長久手が平地だからだと思われる。
あちこち移動したけど、見渡しが掴めないので、

イオンモールの駐車場から長久手の平さを撮影。平だから皆さんの住宅地に適している。

殆んどが石碑等で跡地を伝えているだけで、当時の物や雰囲気はあまり残っていない。住みやすい街になっている。



だけれど、長久手の合戦が如何に壮絶だったかは地名などが今にも伝え残している。
供養塔には

地名では

公園になっている。







公園があり、そこに資料館がある。
資料館は閉館していた。
展示物は無くなっていたが、中には入れてくれカタログなどはくれた。



森長可の所、武蔵塚に訪ねた時、有名な政治家がそこを訪ねてみえていた。
あまりにもの偶然に思わず
ここを訪ねにみえたのですか?と僕が質問した。

はい、との事で
東海の城址や逸話などの会話もしてくださった。



面白かった。